恋愛映画のデジアナ変換。
この手の話は苦手なんだけど、ぼんやりと恋愛系のお話をTVで見ていたら、なんとなくもやもやしたものを感じちゃったのでコラム的に書いておく。最近、ちょっと涙もろい。
恋愛はそもそもアナログ的なもので、デジタルな結果を求めたらダメなんじゃないか?だけど、その無理がある変換を楽しむのが恋愛ドラマだよね?って感じのお話。
とはいえ、この話自体にまとまりはないし、オチもない。そんなお話。
そもそも、「恋」はあいまいな存在だと思う。ちょっと前の言葉を使うと「ファジー」。
フラフラと心が揺れ動くもので、気持ちとか体調とか状況とかで「恋しちゃってるのか、そうじゃないのか」すらが常にあやふや。メーター振り切れで100%を超える!なんて事もあると思う。ほら、「恋は盲目」「アバタもエクボ」って言うし、逆に冷めるのも早い。ほら、「100年の恋も冷める」とか言うし、昔から。それに、恋する相手だって同時に複数になる場合だってある。そんな、とてもアバウトなもの。
そういう意味では、恋というものはとてもアナログなモノだ。
レコードやカセットテープなどと同じ。ノイズだって入るし、時間が経過したり、使用の回数が増えるにつれて質が低下する可能性があるものだ。
だが、これを「愛」という言葉に置き換えようとすると、とたんにハッキリとさせないと許されない空気に変わる。「愛しているか、愛していないか」。これはもう、デッド・オア・アライブ的にどちらかしか許されない完全たる世界。その先にある結婚もそう。「結婚しているか、していないか」で書類上処理され、対象も1人に限定される。そこからあやふやになろうとすると破綻するし、そもそも状態としてどちらか一方で安定維持することを求められる。そういうもの。
そういう意味では、愛というものはとてもデジタルなモノだ。
CDやDVD、HDDなどと同じ。ノイズはクリアにされ、安定した質は保証されるが、壊れた時にはもう復元が出来ない。
毎年毎年、様々な恋愛映画やドラマ、小説などが発表される。シナリオを描く作者や監督の演出などで新しい古いがあるかも知れないけど、結局の所は同じと言える。それは、
アナログをデジタルに変換する信号制御(デジタイズ)
である。
お話の結末を「デジタル」とし、その過程の恋の状態を「アナログ」とするならば、お話の中で一生懸命アナログからデジタルに変換をかけているという単純な構造になる。そして、アナログな恋の感情を無理矢理デジタルに置き換えようとするんだから、そこにはズレ(欠落したり、増幅されたり)が生じてくるわけで、これこそがまさに「恋の葛藤」であり、視聴者はそれを楽しんでいるという事になる。*1
もちろん、作られたお話の世界だけではなく、現実世界でもこの変換が行われており、人々はその葛藤に日々悩まされているワケなんだが。*2