人がいるからのソーシャル。
今日、別館の方にも書いたんだけど。こっちにも抜粋的な意味で。
「ソーシャルゲーム」が流行っている。
これ自体は否定しようがない事実。だけど、この手の話を人とする時に、結構忘れられていると言うか気づかれてないよな?と思うことがある。
よく言われる、
「ソーシャルだから人が集まる」
という感じの話。これ、前提条件が抜けている。
「人が集まっている場所だから」
という。つまり、ソーシャルだから人が集まるのではなく、人が集まるからソーシャルなのである。
そして、もう一つ誤解されていることがある。
「ソーシャルは射幸心を煽るものだ」
という所。
確かに、そういう側面があり、そこにビジネスとして課金モデルが存在することも事実。
だけど、そもそもソーシャルネットワークが存在している意義とは、
「自分が出来ることをすることで他の人の役に立ち、他の人が出来ることで自分の役に立つ」
という、一種の「プロフェッショナル制」が「互助」という形で成り立っているという事だ。決して、ゲームだけの話でもないし、日記を書いたり、つぶやいたりするだけの場所じゃない。
ゲームでも、互助は存在する。
いやいや、戦う場所だろう?競争してるじゃん!
という人がいるかもしれないけど、「競争する」も実は「互助」なのである。ゲームの中では。
たとえば、一人でジャンケンしておもしろいか?という話。
一人ジャンケンが好きという奇特な人もいるかも知れないが、殆どの人は両手を別々の指に動かすのに苦労するし、正直楽しいかどうかは疑問な話だ。それがポーカーだろうが、麻雀だろうが。
だが、一緒にジャンケンしてくれる人がいる、それにより始めてゲームとして成り立つわけで、相互が楽しめる(勝つことも負けることもあるが)環境になっている。
その環境を作ることが「互助」なのだ。
では、なんで課金ビジネスが問題になっているのか?
は、いろいろ複雑なのであえてあまり深くは書かない。
だけど、上の例を参考としてこんな例として上げてみる。
- 誰にも見せられない自分専用のガチャがあった場合、やるかどうか
たぶん、今ソーシャルゲームにはまっている人でさえ、殆どは直ぐに飽きてやらなくなるだろう。カードの枚数が多かろうがなんだろうが。
そういう話。
「人が集まってこそのソーシャル。」
そして、
「人が居続けてこそのソーシャル。」
である。
「ソーシャルだから人が集まる。」
とか
「ソーシャルだから人を集めればいい。」
ではない。
その因果関係を見失うと、ソーシャルネットワークのサービスは、どんなに良いアイデアのものであろうとも、開始時に人が集まっていようとも、決して長続きすることはない。