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クソゲーの価値は。

唐突だけど、特定のゲームを指す話ではなくて。なんか、時々こういう事を書きたくなるので。
Wikipediaにも「クソゲー」の項目はあり、冒頭の説明にはこんな風に書いてある。

クソゲー (Wikipedia)

クソゲー、糞ゲーとは、「クソゲーム」の短縮形で、ユーザーやゲーム評論筋がコンピューターゲームを酷評する際に用いる言葉である。また、その評価が与えられた個々のゲーム作品に対しても用いる。ただし酷評とはいっても、必ずしも全否定されていない作品も散見される。

ただ、間違えてはいけないのは、そもそもその定義は特に定まっていないという事だ。Wikipediaにも同じように書いてある。

クソゲーと呼ばれるゲーム作品は、下記の幾つかの定義のいずれかに属するとされている。これらの定義は明確には区別されずに使われており、個人の主観によってどれに重点を置くかなどが変わってくる。当然、複数の定義に当てはまるものや、全ての定義に当てはまるものも見受けられる。

この中で重要なのは「個人の主観によって」「変わってくる」である。

人はゲームを買うときに、金額の大小や購入の方法などによっても変わるが、基本的には『お金を払う』ものである。最近では『無料』をうたうものもあるが、その場合でも『時間を使う』ものであり、『時は金なり』で等価として考えれば、やはり
『人はゲームを買うときに何らかのお金を払うものである』
と、いえる。

だからこそ、人は『自分の価値観において、その価値を認められないと考えた場合に、それを評価する』ことがあり、それをする事が出来る。

それはもちろんその通りだが、結局のところは、「自分の価値観において」という先ほど書いた通りに「個人の主観によって」で判断しているだけであり、それを他の人に強制する事は出来ない。

無論、これはゲームに限らない。

『あのお店はマズイ』『あの映画は時間の無駄』『あのアプリは使い道が無いクソ』

みたいな。


モノの価値は、各個人間の相対的なものである。ある人にとって不要なものでも、別な人にとって必要なものなら、そこには価値の差が生まれる。決して等価なものは無い。むしろ、誰かが必要としたからそこに存在しているともいえる。

人類がその価値観の差を埋めるために、統一的な価値のものを文化として作り上げたものがお金であり、お金が全ての価値観の基準にはなるが、逆に言えばそもそもお金自体には価値が無く、お金ではないものにのみ価値が生まれると言える。*1

だからこそ、『クソゲー』と言えるのは、『自分の価値観の中』だけである事を認識する必要があり、その価値観を他人に強要する事は出来ないことを理解しておく必要がある。

当然ながら、個人の感想として『あのゲームはクソゲー』という事はダメとは言わないし、それを発言する事はなんの問題は無い。だが、その本来の意味は『あのゲームは(自分にとっては)クソゲー』であるワケで、価値観の異なる別の人にとっては、クソゲーであるとは限らない。

自分は『他の人の為にアドバイスをしている』つもりでも『買うな』とか『買え』とかそういうのは、余計なお世話というか、価値観の押し付けである。

自分と他人の価値観の差は、生めるべく努力する必要はあるものの、価値観は押し付けるものではない。

仮に売り上げが少なくても、特定の人にとって価値のあるゲームであれば、それはクソゲーではない。少なくとも、その特定の人たちにとっては。*2

*1:ここでは面倒なので、お金の取引や、外貨などの話は考えていない。

*2:中には特定の部分については「クソゲー」だけど好きという人もいるわけで、好きがある以上はそのゲームに価値が見出されているという意味で、結局はクソゲーの価値観なんてものは人それぞれであるという事には変わりない。