みた、こと。きいた、こと。

合言葉はSite Seeing

考えることの放棄。

G/W真っ只中でやる気が出ないんで、今日も意味不明なことを。

お客さんとはかなり頻繁にミーティングを行っている。そして、基本的に資料はこちらが作って持って行き、確認してもらう形式であり、お客様側から資料が出てくるという事は殆どない。
その資料の作成自体も、私の仕事の一環だから「次の会議までの短い時間で作るのは大変だ」という事以外で文句はない。資料の構成が上手く行った時はむしろうれしいし。

だが、それらの資料に求められている内容については、いささか疑問に思うことがある。それは「判りやすく」だ。

え?判りやすい資料の何に疑問が?と、それ自体が疑問に思われるかもしれないが、資料が判りやすいものである事は、もちろん悪いことではない。もちろん、良い事であり、それも1つのテクニックだ。そして、それがサラリと出来る人は仕事が出来る人であることはもちろん間違いはない。そんな人に憧れながらも、私自身はなかなかそこまで辿り着けてないんだけれども。

だが、私が思う疑問は立場が逆の方の話で、

『判りやすい資料を求める人は、自分で考えることを放棄していないか?』

という事だ。


判りやすい資料の作り方はいろいろあるが、一番オーソドックスなものは「要点の整理」だ。箇条書きにされた要点や、メリット、デメリットなどの特徴を記載した比較表などがそれにあたる。それを更に図にしたり、プレゼン用の効果などを付加して印象的な資料に仕立てる人もいる。

だが、そうやって作られた資料には「要約の結果、省略された部分」が存在している事を忘れていはいけないと思う。つまりそれは、都合の悪いことは意図的に省略されてしまうこともある、という事を。

お客さんはお金を払って資料を作らせる。立場としては、お客さんの方が上で、資料を作っている側は下になるように見える。でも、成果物として作成された資料は操作されたものが出てくる可能性が常に付きまとい、自分の無意識の内に立場が下だったはずの作る側にイニシアチブを与えてしまっているという事だ。


これは普段の生活の中においても同じことが言える。

お金を払って新聞を買って読んだり、TV番組でニュースやドキュメンタリーを見たり。要約された内容を見て全てを理解したつもりになっていても、実はそれは既にフィルタが掛けられたデータであり、また演出として歪曲された情報となっているモノなのだ。

必ずしもそれらが間違っているものだとは言わないが、そこに書かれている情報をそのまま鵜呑みにし、また判りやすく要約すること、自分が楽しめるように編集されることを求め続け、まとめられたものしか見ないようになる事ことは、自分でそれらについて考えることを放棄しているという事に他ならない・・・と思っている。