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みた、こと。きいた、こと。

合言葉はSite Seeing

愛したいと愛されたい。

ハリウッド的恋愛映画は殆ど「女性視点」で描かれていると感じることが多い。
その一番の理由としては登場する男性が「やたらと軟派なひどい男」とか「主人公の女性を理解してくれる素敵な男性」とか「どこか謎めいた過去や悲しみを背負っている」などと性格付けがハッキリしていることが多いからだ。

だから自分としては男性キャラクターに感情移入できることが少なく、どうしても「あぁ、これも女性視点なんだなぁ」と思うことが多い。

また、シチュエーションとして「運命的な出会い」と「本当の愛に気付く」などのパターンが多く、恋愛映画が好きとはいってもツッコミも好きな私としては「いや、それはありえないだろう」とちょっと冷めた視点で見てしまうこともある。
まぁ、殆どの場合はそれも含めて「おもしろかった!」となるワケだけれども。


この視点を簡単に整理すると、「本当の愛を得る為に何をするのか」という命題に対し、まず「旅行に行く」「現実社会から離れる」という直接的な行動を取り、「本当の自分を取り戻す」という流れを経て「運命の出会いがあるから」と繋いでいる。

ところが、これを「男性視点的映画」にすると、「旅行に行く」とかいう展開はまず無い。殆どの場合は「傷心のまま現実社会を受け入れる」というパターンが多い。その後、「その悲しみを理解してくれる女性が現れる」という流れを経て「全うに生きていれば幸せはいつかやってくる」と繋いでいる。


これらはあくまでも私の主観的定義だが、これらを踏まえるとひとつの結論が導き出される気がする。

人は「愛したい」のではなく、「愛されたい」。
自分が愛する相手が欲しいのではなく、自分を愛する相手が欲しい。

のだ、と。そう、それは映画を見る人が求めるモノの話。

あえて例えるのならば「女性的視点」の映画が「(愛される誰かに出会う)夢を与える」のに対し、「男性的視点」の映画が「(誰かから愛される)希望を与える」と表現すればいいのかも知れない。


子供の頃には親から与えられてきた無尽蔵な愛も、大人になるにつれて親ではなく、別の人に求めるようになっていく。それは決しておかしなことではなく、それだけ自分の世界が広がったからなのだろうが、逆に自分が与える立場にもならなければならない。だが、その与えるという部分が省略されている恋愛映画も多々見られる。それは手っ取り早い恋愛観であり恋愛映画のストーリーとして作りやすいのかもしれないが、それで本当に十分なのかに疑問が残るところでもある。


ちなみに「ホリディ」*1は「女性的視点」の映画であることは間違いが無いが、「愛の与え方」もさり気無くまぶしてある所はポイントが高かった。しかも「愛を与える相手」は「恋人となる相手」とは限らない。また、「愛は押し付けるものではない」といメッセージも多少なりとも含まれている。この辺りはよく出来ている映画だったかな?と思ったのであった。コメディーだけどね。明らかにね。

*1:ホリディ:過去記事⇒id:kenbot3:20070416:1176698566